#5(2020/05/05)
今日は家族でゲームをした。
懐かしくも新鮮な時間だった。
ゲーム。家族でゲームをした、と言われれば世間一般の人間がイメージする通り、その道具はコンシューマーゲーム。いつぞやに何かの拍子で家にタダで転がり込んで来たプレイステーションクラシックというものだ。転がり込んで来るにあたっての詳しい経緯は忘れた。
技術の進歩とは素晴らしい。まず、このゲーム機は、これ1台に20ものゲームが内蔵されており、これをテレビに繋ぎさえすれば過去に初代PSにて一世を風靡した名作が多数楽しめるという代物だ。ゲーム間でディスクを入れ替える必要も無い。内蔵されているので、そもそもディスク自体が無い。そしてこのサイズ。具体的に例えるならきのこの山の箱が一回り程度大きくなったぐらいで、無論これは初代PSより大幅に小さい。当時であればまあまあの場所を取っていたあの機械と20のパッケージ群が、この掌に十分乗るサイズへと詰まっているのだ。
色々遊んだが、その中でも今回語ろうと思うのが鉄拳3。ゲーム自体のレビューではない。
鉄拳とは有名な格闘ゲームシリーズの名称で、私は幼少期にこれの第5作をよく遊んでいた。5と言えばPS2で遊ぶ作品だったので、初代PSのソフトを収録しているこいつには3しか入っていない。
ボロ負けだった。私はあの頃から様々なゲームに触れてきており、格闘ゲームにもほんの少し触っていたため少しは戦える自信があったが、そんな淡い期待もまとめて悉く吹き飛ばされた。かの幼少期とほとんど変わっていない。
別に私は勝負に厳しかったりストイックだったりする人間ではないので、これを悔しくは思わなかった。
いや、試合自体に対しての真摯さまで捨てたわけではないので多少は悔しく思ったかも知れないが、あの両親の私を軽く捻る様は幼い頃の私を思い出させて単純に懐かしく思ったし、シンプルにゲーム自体が只々楽しくてたまらなかった。
そういった意味合いでは、むしろ勝ち越してた方が余計虚しかったかも知れない。可愛らしい子供の頃から年月を経て腐ったナードになった息子が、お得意大好きのゲームで親をなぶり倒す様の何が面白いんだ。親とゲーム、という団欒を楽しむ場で只々勝利と支配を貪る様の何が面白いんだ。
それはそれで面白かったかも知れない。が、存在しない事の妄想は置いといて、兎に角今日のあの時間は童心に帰って白熱していたことを覚えている。これが重要だった。数年かけてパソコンにべったり張り付くだけの人間には到底与えられないであろう時間が確かに差し伸べられていた。最初の二行目に書いた「懐かしくも新鮮な時間だった」という文言は頭の中にぼやあっと浮かんだ抽象的なものだったが、こういった意味をもっていたのである。今、日記という解析を経てその意味をようやく掴んだのだ。
あと新鮮さとは20にもなった大人がこうやって童心に帰り、今あえて両親と目を輝かせてゲームをして遊ぶ、という光景も指すんだと思う。
そう言えば総合的には擁護のしようが無くボロ負けだったとは言え、大人であることによって幼少期は知る由も無かった隙・リーチ・間合いの管理といったことを今回理解し、最終的には何度か両親に勝つまでに至っていたことも覚えている。子供が、壁を破った瞬間であった。
子供と親であり、子供と大人であり、プレイヤーとプレイヤーであり、大人と大人であり、子供と子供であり、そして何より家族と家族として遊ぶ楽しい時間を過ごした。
そういった意味合いでは、私にとって、ゲームとは、例え対戦ゲームですら殴り合い憎み合いの道具ではなく遊びの道具だった。
限界まで加工した左肘です。
正直な所日記を書く気力よりもこっちをひねり出す気力の方が先に無くなりそう